2007-11-01から1ヶ月間の記事一覧

仏心と煩悩

心には不生の仏心や無位の真人があるとともにその心から生じる煩悩がある。私が坐禅をしたり、読書をするのは、不生の仏心が命じるからではなく、煩悩によるのである。煩悩によって坐禅し、少し悟ったり、公案が解けたりすると煩悩は盛んになる。坐禅や悟り…

倶胝竪指

倶胝和尚の竪指は、倶胝和尚の仏心、悟りの心を表している。 小僧が指を切られて悟ったのもその心であろう。 倶胝和尚が死ぬ間際に「天竜一指頭の禅を得て、一生受用不儘」と言って死んだそうだが一指頭の禅というものは、受用儘(使い切る)とか受用不儘(…

百丈野狐

不落と答えても不昧と答えても同じなのである。 不落で狐の身に落ち、不昧で狐の身を脱したというのは創作なのである。 それは黄檗が百丈に「彼が常に正しい答え(ここでは不昧)を出していたら、いったいその老人は何になっていたのでしょうか」という問い…

趯倒浄瓶

浄瓶を浄瓶と呼ばずに何というかと言う問いに対し、潙山は浄瓶を蹴り倒した。なぜか。浄瓶は浄瓶としか言いようがないからである。言いようがないから言葉の代わりに行動で答えたのである。それだけのことである。

香厳上樹

祖師西来意という問いには、言葉で答えることはできないので、樹に上っている人は、言葉で答えないで、態度で答えればいいのである。赤塚フジオのおそ松くんのイヤミのようにシェーのポーズをしてもいいし、足をばたつかせてもいいのである。