2006-01-01から1ヶ月間の記事一覧

やまとうた(3)

風邪引きて寝ている今日も幸せと思へる年に我はなりたり 年の瀬に庭の樹木の枝切れば部屋の内外日は溢れけり 冬されば部屋の窓より空を見てもの思ふたりもの忘れたり はねつきも凧揚げをする人もなく年の初めはしずしずとすぐ

南泉斬猫

南泉斬猫の公案は以下のとおりである。 東西の禅堂の弟子達が、一匹の猫を争奪しているのを南泉和尚がみて、その猫をつまみ上げて「おまえ達何とか言ってみろ。うまく言えればこの猫を救うことができるが、うまく言えなければ、この猫を切り捨ててしますぞ」…

達磨安心−−−悟りと苦悩

達磨安心とは弟子の恵可と達磨の以下の問答のことである。 恵可「心が不安でたまりません。安心させてください」 達磨「不安な心をもってきたら、安心させてあげる」 恵可「探し求めましたが見つかりませんでした」 達磨「あなたのために安心させてあげたよ…

心は誰のもの?

心は誰のものであろうか。私yasuda-misakoの心はyasuda-misakoのものなのであろうか。心はyasuda-misakoのものであってyasuda-misakoのものではない。我々の心を我々のものとして独占していてはいけないのである。我々の心を我々から解き放たないといけない…

祖仏不別(祖仏と別ならず)

臨済は我々は祖仏と別ではない(同じだ)と言っている。釈迦とも別ではないと言っている。もし、このように見て取ることができれば、これこそ一生無事の人(大安楽の人)であると言っている。無事な人がなぜ大安楽な人なのか。自分の身に何が起こってもそれ…

倶胝竪指(倶胝指を竪てる)

倶胝和尚は、誰彼となく挑戦的な問答を仕掛けてくると、決まって指を一本立てられた。倶胝の処にいた童子が、ある時外からやってきた客に、「ここの和尚はどのように仏法の肝要を説いていられるか」と尋ねられ、直ちに指を一本立てて見せた。これを聞きつけ…

日々是同日(日々これ同日)

月曜になると、週末を楽しみにする。 毎週毎週その繰り返しで、あとは、ゴールデンウィークや夏期休暇、年末年始の休暇を楽しみにする。そして、長期的に見て、定年退職を楽しみにしている。 会社に出勤している毎日は、定年までの辛い日々と見なしている。 …

趙州狗子(趙州の狗子)

趙州和尚にある僧が「犬に仏性がありますか」と問うたのに対し、趙州和尚が「無い」と答えた。 これは無門関に載っている公案である。 趙州和尚は従容録では同じ問いに対し「有る」と答えているらしい。つまり同じ問いに対しある時は「無い」と答え、ある時…

不生の仏心

臨済録に出てくる一無位の真人とは、不生の仏心の人のことである。不生の仏心とは盤珪禅師の教えの言葉である。この不生の仏心の不生という言葉も解りにくい。文字どおりは生まれないと言うことであろう。生まれない仏心とは何であろうか。本によっては不生…

釈迦と臨済とその他無名の悟りし人々と私

釈迦と臨済とその他の無名の悟った人々と悟っていない私は同じである。同じであることを私は信じる。悟っていようがいまいがそれがどうだというのだ。したがって、悟った僧を高僧と崇めたり、上人、聖人と崇めたりすることには反対する。悟ろうが悟るまいが…

如何是仏法大意(いかなるか是仏法の大意)

臨済録に出てくる言葉である。 ある僧が臨済に「仏法の大意とは何か」と聞いたのである。 すると臨済は「喝」と一喝した。 臨済は以前、師である黄檗に同じ質問を三度して、三度棒で殴られた。 臨済もその師黄檗も同じ問いに対し、喝と棒で答えた。 なぜ喝と…

雪国の教訓

臨済録のなかに次のような言葉がある。 「いっぱしの男子たるものは、やたら政治むきのことをあげつらったり、世間の是非善悪を論じたり、女や金の話など、無駄話ばかりして日を過ごしてはならない」と。 その通りだと思う。 これは、政治などの世事に関心が…

乾屎橛(かちかちの糞の棒)

◎乾屎橛(かちかちの糞の棒) 臨済録のなかにでてくる言葉である。 かちかちの糞の棒と意味だそうだ。 ある僧が臨済に無位の真人とは何者かと問うたところ、臨済がその僧の胸ぐらをつかんで「さあ言え、さあ言え」と迫った。その僧が答えられずにもたづいて…

可惜一杯茶(惜しむべし一杯の茶)

◎可惜一杯茶(惜しむべし一杯の茶) 章禅師が修行中の時、師の投子和尚が章禅師に「森羅万象この中にあり」と言ってお茶を差し出した。章禅師は「森羅万象なんのところにかある」と言って、茶碗を吹っ飛ばしてしまった。そこで投子和尚は「惜しむべし一杯の…

赤肉団上有一無位真人(赤肉団上に一無位の真人有って)

◎赤肉団上有一無位真人(赤肉団上に一無位の真人有って) 臨済録のなかの言葉である。 「赤肉団上に一無位の真人有って、常に汝ら諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ」と続くのである。 我々の肉体には無位の真人がいるというのである。親の…

喫茶去(お茶でも飲みなさい)

◎喫茶去(お茶でも飲みなさい) 趙州和尚の言葉である。趙州和尚が和尚のところへ修行にきた僧達に先ずお茶でも飲みなさいとお茶を奨めた言葉である。 これはお茶を飲むのも坐禅をするのも同じことだと言っているのである。坐禅をすることに幸せを感じるよう…

随処作主、立処皆真(随処に主となれば、立処皆真なり)

◎随処作主、立処皆真(随処に主となれば、立処皆真なり) 臨済録の有名な言葉だ。 どこででも主人公であれば、立っているところが全て真実だ、と言う意味であろうか。一寸わかりにくい言葉ではある。わかりやすくするために、この言葉を逆に置き換えてみたら…

愚人笑我、智乃知焉(愚人は我を笑うも、智は乃ちこれを知る)

年末年始に風邪のため寝込んでしまったのでこの日記を休んでしまった。 今日から再開しようと思う。◎愚人笑我、智乃知焉(愚人は我を笑うも、智は乃ちこれを知る) この言葉も臨済録のなかの言葉である。 仏法というものは、用功の処はなく、ただ、平常のま…