自信

金剛般若経によれば、私は完全なる悟りを得ることはできない。永遠の平和に導かれることはない。それは、「生きているものという思い」、「自我という思い」、「生きているものという思い」、「個体という思い」、「個人という思い」などをおこしたりするも…

仏心と煩悩

心には不生の仏心や無位の真人があるとともにその心から生じる煩悩がある。私が坐禅をしたり、読書をするのは、不生の仏心が命じるからではなく、煩悩によるのである。煩悩によって坐禅し、少し悟ったり、公案が解けたりすると煩悩は盛んになる。坐禅や悟り…

倶胝竪指

倶胝和尚の竪指は、倶胝和尚の仏心、悟りの心を表している。 小僧が指を切られて悟ったのもその心であろう。 倶胝和尚が死ぬ間際に「天竜一指頭の禅を得て、一生受用不儘」と言って死んだそうだが一指頭の禅というものは、受用儘(使い切る)とか受用不儘(…

百丈野狐

不落と答えても不昧と答えても同じなのである。 不落で狐の身に落ち、不昧で狐の身を脱したというのは創作なのである。 それは黄檗が百丈に「彼が常に正しい答え(ここでは不昧)を出していたら、いったいその老人は何になっていたのでしょうか」という問い…

趯倒浄瓶

浄瓶を浄瓶と呼ばずに何というかと言う問いに対し、潙山は浄瓶を蹴り倒した。なぜか。浄瓶は浄瓶としか言いようがないからである。言いようがないから言葉の代わりに行動で答えたのである。それだけのことである。

香厳上樹

祖師西来意という問いには、言葉で答えることはできないので、樹に上っている人は、言葉で答えないで、態度で答えればいいのである。赤塚フジオのおそ松くんのイヤミのようにシェーのポーズをしてもいいし、足をばたつかせてもいいのである。

刻々是好刻

坐禅をしている刻が最善の刻で、その他の刻が意味のない刻ではない。坐禅をしていない刻も坐禅をしている刻と同じよい刻である。 経過していく刻を行為によってよい(意味のある)刻と悪い(無意味)刻とに分けることは禅的ではない。 一時一時がよい刻なの…

不思議な小さな飛行物体

トイレに小さな蝿?が飛んでいる。小さな小さな生き物。それが精一杯羽を打ち振って飛んでいる。不思議である。筋肉があるわけではない。それなのに高速で羽を振って飛んでいる。飛んでいる方向に手をやるとそれを避けて方向を変える。その小さな体に目があ…

南泉斬猫(南泉猫を斬る)

南泉和尚は東西の禅堂弟子達が一匹の猫を巡ってトラブルを起こしているのを見て「さあ、おまえ達何とか言ってみよ。うまく言えたらこの猫を救うことができるのだが、それができなければ、この猫を斬り捨ててしまうぞ」と言った。誰も答えることができなかっ…

牛過窓櫺(牛、窓櫺を過ぐ)

「水牛が通り過ぎるのを、窓の格子越しに見ていると、頭、角、前脚、後脚とすべて通り過ぎてしまっているのに、どういう訳で尻尾だけは通り過ぎないのだろうか」という公案である。 これは悟りの段階を言っているのである。頭等が見えたということは、ある程…

開経偈

無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇 我今見聞得受持 願解如来真実義世の中には妙法に遭わなくても幸せに暮らしている人たちがいる。妙法に遭った人が幸せであるとは言えない。妙法に遭った人とは苦悩の末に遭ったのである。妙法に遭うほど苦悩したのである。苦悩…

無心

鏡のような心、不動心、水心、風心、躍動心、無位の真人、不生の仏心等の無相の自己と言われるものは無いのである。本来無一物なのである。元々の心は無いのであるから傷ついたりしないのである。何もないところに生じた心というものは何なのであろう。空?。

水心、風心

禅については語るべき言葉がない。語るべきではない。語れば禅でなくなってしまう。 従って、臨済録についても語るべきではない。 禅を語ることのできる人は悟った人である。鏡のような心とか不動心には違和感を覚える。心は鏡のように堅いものではない。不…

心身

死ぬと肉体は滅びると思っていた。肉体が無くなるということは、滅びるということなのか。自然界のものが寄り集まって肉体となり、意識が生じる。それが、死によって自然界に帰る。滅びるのではなく宇宙に帰るのである。肉体即意識(こころ)である。 自然界…

無事な人とは何事が身に降りかかってきても無事だと思える人である。何もしない人のことではない。 何事が身に降りかかってきても無事だと思えるのは、自己というものがないからである。

悟りと悩み

人は悟ったら悩み、苦しみから解放されるのか。 ある禅僧の著書に「安心して悩め」というのがあったように思う。 これは悟っても悩みはなくならないが、悟ると安心して悩めるということなのか。 そのままであることに安心がある。 苦しみや悩みは自分の心が…

大愚肋下、方解築拳(大愚の肋下を、正に解いて拳で突いた)

件名の意味は「(臨済は)悟って、大愚の脇の下を拳骨で突いた」ということである。 大愚は臨済から脇の下を拳で突かれたから、臨済が悟ったことを知ったのである。 臨済は悟っていなかったら大愚の脇の下を突くことはできなかったであろう。 悟るとなぜ大愚…

なぜ、人を殺してはいけないのか

15日の産経新聞のテレビ版にNHKの「21世紀仏教への旅」の紹介記事が載っていた。その中で五木寛之は「なぜ、人を殺してはいけないのか」という小学生の問いかけを自らにも問い続けているという。仏教徒たる?五木はこのような問いかけをいつまでも問…

臨済録について

今まで主に臨済録について書いてきた。しかし、私が臨済録について書くのは、めくら蛇に怖じずというか、怖いもの知らずというか、おそれを知らないというか、畏れおおいことである。今日臨済録を読んでいて、臨済録は恐ろしい本だと思った。全く歯が立たな…

やまとうた(4)

正月はどこもかしこも琴の音をたれながしつつ黄昏れてゆく 葉の落ちし枝より鳥が飛び立ちて暮れゆく空に枝震えおり 朝明けより子供の遊ぶ声がする雪降り積もる小公園に

死刑はこうして執行される(その2)

昨日、はてな市民になった。Eメールで通知を受けて嬉しかった。アテナイやローマの市民になったように嬉しかった。アテナイやローマ市民のような特権はないのであろうが、とにかく嬉しい。ある意味では、はてなに認知された訳だから。これからもできるだけ…

有眼耳鼻舌身意

臨済録は「六道(眼耳鼻舌身意)の神光、未だ曾て間歇せず」といい、般若心経は「無眼耳鼻舌身意」といっており、こはいかにと昨日書いた。 般若心経の「無眼耳鼻舌身意」はこれから考えていかなければいけないが、素直に我が身を振り返れば、有眼耳鼻舌身意…

無眼耳鼻舌身意

「山僧が見処に約せば、釈迦と別ならず。今日多般の用処、什麼をか欠少す。六道の神光、未だ曾って間歇せず。若し能く是の如く見得せば、祇だ是れ一生無事の人なり。」私の見るところ、釈迦と我々は別ではない。今日いろいろな働きに何も欠けているものはな…

コーランを知っていますか

阿刀田高著「コーランを知っていますか」に次の一節がある。「人間も世界も一切が神の創造であり恵みであることを説いている文言だ。それゆえに神は人間をどのようにでも操ることができるし、人間の進むべき道、あるべき姿はすべて神により決定されている。…

死刑はこうして執行される

村野薫著「死刑はこうして執行される」を読んだ。興味深い話が一杯書かれていて、それを題材にして書けばこの日記も数日続けられれるあろう。 死刑の執行は、役所が休みの土日には行われないらしい。そのため死刑囚にとって土日は執行の恐怖がなく、くつろげ…

曲順人情(曲げて人情に順って)

臨済は、成徳府知事の王常侍に説法を請われ、法堂に登って言った。「山僧今日、事已むことを獲ず、曲げて人情に順って、方に此の座に登る。(私は今日、やむを得ず、私の気持ちを曲げ、人情に順って此の座に登った)」と。臨済のような超人は義理や人情によ…

困来即臥(困れ来たれば即ち臥す)

標題の言葉は、以下に出てくる臨済の言葉である。 「仏法は用功の処無し、ただ是平常無事。屙屎送尿、著衣喫飯、困れ来たれば即ち臥す。」 意味は、仏法は、努力して得られるものではない。ただ、平常のままであればいいのだ。大小便をしたり、着物を着たり…

やまとうた(3)

風邪引きて寝ている今日も幸せと思へる年に我はなりたり 年の瀬に庭の樹木の枝切れば部屋の内外日は溢れけり 冬されば部屋の窓より空を見てもの思ふたりもの忘れたり はねつきも凧揚げをする人もなく年の初めはしずしずとすぐ

南泉斬猫

南泉斬猫の公案は以下のとおりである。 東西の禅堂の弟子達が、一匹の猫を争奪しているのを南泉和尚がみて、その猫をつまみ上げて「おまえ達何とか言ってみろ。うまく言えればこの猫を救うことができるが、うまく言えなければ、この猫を切り捨ててしますぞ」…

達磨安心−−−悟りと苦悩

達磨安心とは弟子の恵可と達磨の以下の問答のことである。 恵可「心が不安でたまりません。安心させてください」 達磨「不安な心をもってきたら、安心させてあげる」 恵可「探し求めましたが見つかりませんでした」 達磨「あなたのために安心させてあげたよ…