百丈野狐

不落と答えても不昧と答えても同じなのである。
不落で狐の身に落ち、不昧で狐の身を脱したというのは創作なのである。
それは黄檗が百丈に「彼が常に正しい答え(ここでは不昧)を出していたら、いったいその老人は何になっていたのでしょうか」という問いに対する百丈と黄檗の行為が仏道修行を完成した人は因果に落ちて狐になることはないということ(不落)を示しているからである。
黄檗が百丈に問うたのは、百丈の話が創作であることを知ってのことなのである。
そもそも因果はあるものである。仏道修行を完成させたからといって、因果の理から抜け出せるものではない。ただ、仏道修行を完成させた人は因果の理に拘らない。因果に身を任せるだけである。