自信
金剛般若経によれば、私は完全なる悟りを得ることはできない。永遠の平和に導かれることはない。それは、「生きているものという思い」、「自我という思い」、「生きているものという思い」、「個体という思い」、「個人という思い」などをおこしたりするものはもはや求道者と言われないからだ。求道者といわれないものは永遠の平和に導かれない。
それならどうすればいいのか、私には絶望しかないのか。南無阿弥陀仏と唱えるか南無妙法連華経と唱えるしかないのか。南無阿弥陀仏も南無妙法蓮華経も唱えたくない。どうすればいいのか。私は悩んでおりました。
すると、臨済の自分を信じろという言葉が浮かんできました。自分のなかの無位の真人、無生の仏心を信じろと。そうなのだ自信こそが救いの道なのだ。
百丈野狐
不落と答えても不昧と答えても同じなのである。
不落で狐の身に落ち、不昧で狐の身を脱したというのは創作なのである。
それは黄檗が百丈に「彼が常に正しい答え(ここでは不昧)を出していたら、いったいその老人は何になっていたのでしょうか」という問いに対する百丈と黄檗の行為が仏道修行を完成した人は因果に落ちて狐になることはないということ(不落)を示しているからである。
黄檗が百丈に問うたのは、百丈の話が創作であることを知ってのことなのである。
そもそも因果はあるものである。仏道修行を完成させたからといって、因果の理から抜け出せるものではない。ただ、仏道修行を完成させた人は因果の理に拘らない。因果に身を任せるだけである。
趯倒浄瓶
浄瓶を浄瓶と呼ばずに何というかと言う問いに対し、潙山は浄瓶を蹴り倒した。なぜか。浄瓶は浄瓶としか言いようがないからである。言いようがないから言葉の代わりに行動で答えたのである。それだけのことである。
香厳上樹
祖師西来意という問いには、言葉で答えることはできないので、樹に上っている人は、言葉で答えないで、態度で答えればいいのである。赤塚フジオのおそ松くんのイヤミのようにシェーのポーズをしてもいいし、足をばたつかせてもいいのである。