不思議な小さな飛行物体

トイレに小さな蝿?が飛んでいる。小さな小さな生き物。それが精一杯羽を打ち振って飛んでいる。不思議である。筋肉があるわけではない。それなのに高速で羽を振って飛んでいる。飛んでいる方向に手をやるとそれを避けて方向を変える。その小さな体に目があるのであろうか。この小さな生き物を生き物たらしめているもの。それは無位の真人と同じものである。

南泉斬猫(南泉猫を斬る)

南泉和尚は東西の禅堂弟子達が一匹の猫を巡ってトラブルを起こしているのを見て「さあ、おまえ達何とか言ってみよ。うまく言えたらこの猫を救うことができるのだが、それができなければ、この猫を斬り捨ててしまうぞ」と言った。誰も答えることができなかったので、南泉和尚は猫を斬り捨ててしまった。夕方に帰ってきた趙州に南泉がこのできごとを話したら、趙州は履いていた草履を頭に載せて出て行ってしまった。南泉は「お前があの場にいたら猫を救うことをできたものを」と言った。
この公案に対し、道元は「何もよう申しません、さあどうぞお斬り下さい」、「一刀両断に斬ることは誰でも致します。一刀一断にお斬り下さい」と言ったら南泉も困ったであろうと言ったそうである。
南泉の問うたことに対する答えは言うまでもなく趙州の態度で示されている。南泉の問いに対する答えは言葉で表すことはできないのである。だから、南泉は草履を頭に載せるという行動で答えたのである。
以上のように書いたが、一体、南泉は弟子達に何を言えと言ったのであろう。猫がどちら物かを言えと言ったのか。悟境を述べよと言ったのか。
これらのことは悟っていれば何とか言えることである。
そうであれば、趙州が頭に草履を載せたのは、南泉斬猫を馬鹿気たことと非難したことになる。
南泉は弟子達が答えられなくても猫を斬ることはなかったのである。だからそれを後悔して、趙州がいたら斬らなくてよかったのにと後悔したのである。

牛過窓櫺(牛、窓櫺を過ぐ)

「水牛が通り過ぎるのを、窓の格子越しに見ていると、頭、角、前脚、後脚とすべて通り過ぎてしまっているのに、どういう訳で尻尾だけは通り過ぎないのだろうか」という公案である。
これは悟りの段階を言っているのである。頭等が見えたということは、ある程度悟っているということである。尻尾が見えないということは、大悟徹底していないということである。大悟徹底していれば見えるのである。それだけのことである。
人々は一般的に公案というものを難しく考え過ぎるきらいがある。禅は思慮を離れることを求めているのに。この公案も難しく考えているようだ。「この尻尾は、人々具足の自己の仏性」だとかの解釈である。
公案は須く思慮を離れるべし。

開経偈

無上甚深微妙法
百千万劫難遭遇
我今見聞得受持
願解如来真実義

世の中には妙法に遭わなくても幸せに暮らしている人たちがいる。妙法に遭った人が幸せであるとは言えない。妙法に遭った人とは苦悩の末に遭ったのである。妙法に遭うほど苦悩したのである。苦悩がなければこれに越したことはない。妙法を必要とするほどの苦悩のない人は幸せである。
蓮如などの仏教者は、白骨の章などで早く仏教を信じるよう勧めている。これなど大きなお世話である。妙法に遭わずにすんだ幸せ者は、死ぬときも妙法を必要とせずに自然に死んでいくものである。後生を信じず、後生を必要としなければ。

開経偈は不幸にも妙法を必要としてしまった人たちの負け惜しみなのである。

無心

鏡のような心、不動心、水心、風心、躍動心、無位の真人、不生の仏心等の無相の自己と言われるものは無いのである。本来無一物なのである。元々の心は無いのであるから傷ついたりしないのである。何もないところに生じた心というものは何なのであろう。空?。

水心、風心

禅については語るべき言葉がない。語るべきではない。語れば禅でなくなってしまう。
従って、臨済録についても語るべきではない。
禅を語ることのできる人は悟った人である。

鏡のような心とか不動心には違和感を覚える。心は鏡のように堅いものではない。不動心のように動かないものでもない。鏡のような心を、水のような心(水心)、風のような心(風心)と、不動心を躍動心と言い換えたい。

心身

死ぬと肉体は滅びると思っていた。肉体が無くなるということは、滅びるということなのか。自然界のものが寄り集まって肉体となり、意識が生じる。それが、死によって自然界に帰る。滅びるのではなく宇宙に帰るのである。肉体即意識(こころ)である。
自然界の物質が集まるとその中に意識が生じるとすれば、台風などに意識があるのであろうか。