日々是同日(日々これ同日)

月曜になると、週末を楽しみにする。
毎週毎週その繰り返しで、あとは、ゴールデンウィークや夏期休暇、年末年始の休暇を楽しみにする。そして、長期的に見て、定年退職を楽しみにしている。
会社に出勤している毎日は、定年までの辛い日々と見なしている。
それなら定年退職後は、何を楽しみにするのか。近くない将来に訪れる死か。そのように考えると暗澹たる気持ちになる。
このようなことでいいのであろうか。
今私は臨済録を読んでいる。臨済録の中にその答えが書かれているのであろうか。
以上のように考えながら、日々を生きることは、臨済から一喝を食らうであろう。
毎日毎日何を求めているのだ。求める心をやめよ。臨済はそのように言うであろう。
毎日を土日のように生きればいいのだ。なぜ、土日のように生きられないのか。
自分以外の、外部の目や思惑を恐れているからだ。
寺で修行している出家者には、毎日が同じ日で、月曜も土日もないであろう。在家の我々にとっても日は全て同じでなければならない。江戸時代は月曜だ火曜だ水曜だと毎日を今日のように呼んでいなかったであろう。日々是同日であったのである。