一日不作、一日不食(一日なさざれば、一日食らわず)

◎一日不作、一日不食(一日なさざれば、一日食らわず)
これは百丈和尚の言葉である。百丈和尚が老齢であるにもかかわらず作務をやめなかったので、作務ができないように弟子が作務で使う鎌を隠してしまった、そのため作務ができなかった百丈が作務をしなかったので、今日は食事をしないと言ったのである。

この言葉は好きではなかった。働かざる者食うべからずと言っているようで、道徳的で好きではなかった。勤労の奨め、経営者の言葉のようで反感を覚えていた。禅語らしくないと思っていた。百丈はたいしたことのない和尚だと思っていた。が、今改めてこの言葉を読み直してみると、勤労の奨めというような浅い意味では無いように思われる。

この禅語は、勤労の自由と年齢や身分(和尚という)による差別と作務をどのように捉えるかを問題にしているように思われる。百丈は作務が苦痛ではなかったはずである。しかしながら、弟子達は作務を苦痛に思っていたのではないか。だからそのような作務を老齢の和尚にさせてはいけないと思ったのではないか。弟子達が作務を苦痛と思っていたとすると、作務をつまらないものと思っていた可能性がある。つまらないと思いながらすると何でも苦痛なものである。作務即坐禅である。百丈にとって作務は大切なものだったはずである。その大切な作務をする自由を弟子達は百丈から奪ったのである。また、老齢であること、和尚であると言うことで差別をしたのである。禅は差別というものから最も遠い境地にあるべきものである。

作務も禅であること、作務をする自由を尊重すること、年齢等による差別をしてはいけないことを百丈は不食によって弟子達に教えたのである。

是とは話は違うが日本でも食い物の差別(弟子たちが師である和尚に好いものを食べさせようとした差別)で食事をしなかった和尚の話がある。差別をしてはいけないのである。