赤肉団上有一無位真人(赤肉団上に一無位の真人有って)

◎赤肉団上有一無位真人(赤肉団上に一無位の真人有って)
臨済録のなかの言葉である。
「赤肉団上に一無位の真人有って、常に汝ら諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ」と続くのである。
我々の肉体には無位の真人がいるというのである。親の名付けた安田美沙子と言う人間でもない、夫でも父親でも妻でも子供でもない次長課長でもない無位の真人がいるというのである。それを覚れと言うのである。
無位の真人であるということで、我々は全ての人と同じということになる。嫌いな隣人や上司と同じ無位の真人であると。
これらの言葉は頭では分かるが、心底覚ることは難しい。
我々は親のつけた名前をもっているし、家族や社会の一員でもある。家族や社会の一員として喜怒哀楽の生活を送らざるを得ない。そうでなければ生きてはいけない。
であるとすれば、我々はそのように生きながらも時々は無位の真人であることを思い起こせばいいのであろうか。