如何是仏法大意(いかなるか是仏法の大意)

臨済録に出てくる言葉である。
ある僧が臨済に「仏法の大意とは何か」と聞いたのである。
すると臨済は「喝」と一喝した。
臨済は以前、師である黄檗に同じ質問を三度して、三度棒で殴られた。
臨済もその師黄檗も同じ問いに対し、喝と棒で答えた。
なぜ喝と棒なのか。
それは「仏法の大意とは何か」という問いの答えは、言葉では答えられないからである。この段の後段に臨済が言っているように「法離文字(法は文字を離る)」なのである。仏法は言葉で言い表せない。だから、喝や棒で答えるのである。そうすることが答えなのである。

従って、問う者が、この問いの答えは言葉では得られないと知っていれば、問いを発することはしないであろう。知っていて問いを発したのであれば、目的は答える人の力量を計ることに他ならない。
答える人も自分が計られているかどうかを見極めて答える必要があろう。答えに対する相手の反応で相手が知っていて質問したか否かが分かるであろう。