不生の仏心

臨済録に出てくる一無位の真人とは、不生の仏心の人のことである。不生の仏心とは盤珪禅師の教えの言葉である。この不生の仏心の不生という言葉も解りにくい。文字どおりは生まれないと言うことであろう。生まれない仏心とは何であろうか。本によっては不生とは「そのまま」の意だと言っている。それからすると不生の仏心とはそのままの仏心ということになる。生まれたばかりの、何ものにも染まっていない赤子のような心とも考えられる。いずれにしても解りにくい。前述した生まれない仏心とすると生まれる前の仏心と捉えることもできるようだ。
私にとって一番理解しやすいのは、不生とは生じないということである。何が生じないのか。念である。念の生じない心が不生の仏心である。が、念が生じないと言うことはないから念にとらわれない心ということになろうか。念が生じてもすぐに消えていく、そのような心が不生の仏心なのである。そういった意味の不生の仏心であればそれを保持することは難しいことではないような気がする。