有眼耳鼻舌身意

臨済録は「六道(眼耳鼻舌身意)の神光、未だ曾て間歇せず」といい、般若心経は「無眼耳鼻舌身意」といっており、こはいかにと昨日書いた。
般若心経の「無眼耳鼻舌身意」はこれから考えていかなければいけないが、素直に我が身を振り返れば、有眼耳鼻舌身意である。
今の私は臨済録の「六道(眼耳鼻舌身意)の神光、未だ曾て間歇せず」を信じる。無眼耳鼻舌身意を信じない。また、私は般若心経を読んでも心は少しも軽くならないが、臨済録を読むと心が軽くなる。臨済がいうようにお経や教典などにはとらわれることはないのだ。しかも私は般若心経には何の感銘も受けない。般若心経はふとした時に魔除けの呪文みたいに唱えることはあるが心は打たれない。私の心を打たないお経など糞食らえだ。
六道の働きは未だ曾てとぎれずに、過去から現在、そして未来に繋がっていくのだ。万世一系天皇みたいなものだ。否、万世一系天皇など比べものにならないくらいすばらしいものなのだ。その働きがとぎれずに、過去、現在、未来と繋がっていくから、生死を超えるといえるのだ。そのように考えれば、心やすく死んでいくことができそうである。